その御稲は茅の輪のようにして、家の玄関口に掛けるのが習わしとされている。
還幸祭の朝、会所にて
その御稲は茅の輪のようにして、家の玄関口に掛けるのが習わしとされている。
祇園祭 | | 還幸祭 | 祇園祭2012, 祇園祭2012還幸祭 |
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祇園祭の起源に遡ると、24日の還幸祭が最も重要な祭礼である。
17日の神幸祭で氏子町の御旅所においでになった神様が、
単に八坂さんへお帰りになる日ではないからだ。
神幸祭の日の山鉾巡行同様に、午前10時、神輿の行く手を清祓いする巡行がある。
昭和41年(1966年)、観光政策などから巡行路の変更、山鉾巡行の統廃合と過ちを犯しているが、
現在の花傘巡行がそれに当たる。
行列には、こんな風流も見られ、
祇園祭花傘連合会石段下-市役所前-八坂神社と巡行し、
八坂神社到着後(12:00頃)舞踊等の奉納が行なわれる。
そして、同日24日午後5時には、御旅所を発輿(はつよ)された神輿が、
氏子域を渡御し、 神泉苑に向かわれ、疫病退散を願うお祀りをされるのである。
還幸祭の原点と真髄は疫病退散の御霊会であって、
この日神泉苑にて東寺の僧侶による読経の迎えを受け、
黒門三条の八坂御供社(やさかごくうしゃ)で祭典が執り行われるところに表されている。
お祀りを滞りなく終えると、
中御座を先頭に三基の神輿は三条御供社をあとに八坂神社へと還られる。
明日は、往時より京都あげての最大の祭り日・祇園御霊会なのである。
八坂神社に還られる神輿がクライマックスを迎えるまで、
是非、沿道に出て、声援の程を御願いしたい。
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ここで三基と東若御座が、6時半頃より順次「差し上げ」と「差しまわし」を行い、神輿渡御出発式となる。
石段下では、中御座、東御座、東若御座、西御座が入り、「差し回し」が行われる。祭りコミュニティの結束は固い。どの男達の顔も誇らしげである。
観光イベントにはない、地域の熱が伝わってくる。 更に地域の若者の参加をや子供達の参加を促していってほしい。気力のない現代の特効薬がここにはある。 そう感じたのは小生だけではあるまい。市長・知事の挨拶が行われた。市長は何を感じ取ったであろうか。
二基(中御座・西御座)は四条通を東へ、
二基(東御座・東若御座)は東大路を北へ進み、祇園町を通り、
各々氏子町の所定コースを練り歩いた。
平成24年(2012)7月10日、梅雨、各地の異常気象の中、鉾建て、中御座神輿洗いという祇園祭の序盤の華となる日、朝から京都は快晴。
四条通り烏丸東の長刀鉾町では、祇園祭ファン衆目の長刀鉾の鉾建てが始まっていた。長刀鉾保存会会所内で弊切(へいきり)神事も行われている時間帯で、羽織袴、訪問着の役員方も出入りされ、華やかなお祭り気分が醸し出されている。
本日の主役である鉾建て職人とお呼びするのだろうか、地下足袋、作業着の20歳代から70歳代までの男達が「よう見ときや」と言う自信に溢れながら、黙々と作業している。その職人の数、外で9人、会所倉庫内に5人、総勢14名だ。
会所内では、真木(鉾の芯となる丸の大柱)を調整する2人の視線から、やはり神憑ったものを扱っているという空気が流れ、観客であれ、報道者であれ容易に近づきがたい。やや、広まった奥の方でも何やら忙しく作業されている。明日装備される鉾車を準備しているのであろうか。
物々しい書き出しで恐縮だが、この記事の目的は実に簡単で「本番でOJTがなされ、1000年の歴史は保たれる」との感想をお伝えすること。「なにをいまさら」と諸先輩がたも言い、言われたことと思う。恐らく見るたびに、誰もが、毎年、思い返すかのように感じ入る事なのだと思う。この見物人の新ためて「へぇー」と感じることも歴史を保つ参加者、貢献者だとの自負を持って、警備員に蹴散らされても見物したい。
鉾の四本の柱に4組の老若職人ペアが綺麗に同時進行の縄締めの技を見せる
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函谷鉾でも同じく四ペア風景が | 鶏鉾も少人数ながら同じ |
祇園祭 | | 鉾建て | 亀巻き, 八幡巻き, 海老巻き, 祇園祭, 祇園祭2012, 縄締め, 雄蝶, 雌蝶, 鶴巻き |
おむかえ提灯や花笠巡行で練り歩く姿から、
転じて、この場ではハレの舞踊が見られます。
☆
神賑「しんしん・かみにぎわい」とは・・・
神社の恒例祭の時に、神殿において神職の執行する厳粛な祭典が終わった後、
神楽や獅子舞い、舞楽、奉納武道、奉納相撲、競射、神輿、山車、仮装行列など
さまざまな催しをするが、これらを総称して神賑行事という。
どうやら、神様は賑やかに歓待されることがお好みのようである。
山鉾で3番目の重さとなる7.63トンの部材が右写真の既に組み上がった土台部分と下の残りざっとみたところこんな感じである。中心にたてられる「真木」や「鉾車」濱田見当たらない。これらで長刀鉾が作られる。ご承知のように釘等は使わず、一部は鉄で補強はされているものの木材をほぞで組み合わせ、芸術的な荒縄で縛り結合する。
長い祇園祭の歴史の中でその時々に現れた装飾品も含めた芸術、工学技術、道具、材料を取り入れる、あえてそれを拒否して従来のやり方を守る、の切り分け、判断に興味はそそられるものの、ここに見えている部材たちは、不変の象徴なのかでしょうか。
この鉾建ての手順等は、五所光一郎のコラム「祇園祭 鉾建て きこえる祇園祭を支える黒子の息遣い」に詳しいのでご覧下さい。
http://kyoto-brand.com/read_column.php?cno=080715
「弊切(へいきり)」は八坂神社神官が長刀鉾町に出向き、神事に用いる各種の御幣類を調整する神事、行事である。
会所1階西側にほこらがあった。これは、ここが商家だったころからあるお地蔵さんらしく、移動されずのこる。
その横で保存会1階の全体の長さに匹敵する「真木」を組み立て、調整する。この先端に長刀が付けられる。
鉾車は更に奥深い倉庫にまだしまわれていて姿は見えない。