花傘巡行
7月24日、早朝から大荒れの雨も一転あがり、午前10時から約2時間にわたり、祇園祭でも一際華やかな花傘巡行が行われた。
祇園祭の山鉾巡行は、17日(神幸祭のお清め、先まつり)24日(還幸祭のお清め、後まつり)に分かれていたが、昭和41年に統合された。
しかし、神が八坂にお帰りになるのに町衆がそれに先立ち、清め、讃え、盛り上げる催事がないのは寂しいことと、八坂神社の唱導で花傘巡行は始まった。
花傘や屋台は、少ないものの祭好きのこどもたちや花傘娘、芸妓衆の綺麗どころが華やいだ行列で荒々しい男たちの還幸祭を先行するのは三社の神たちも喜ばれる。
巡行終了後には八坂神社の舞殿で、久世六斎念仏をはじめ、祇園獅子舞や舞妓さん・芸妓さんの舞など、数々の舞踊、芸能が7組舞踊奉納が行われた。
来年度からは、山鉾巡行が本来の先祭、後祭の形で挙行されるが、花傘巡行は引き続き歴史を刻む模様。
巡行は、八坂神社・祇園石段下(午前10時出発)-四条通(西)-河原町通(北)を経て、市役所前を通過(午前11時頃)し、御池通(西)-寺町通(南)-四条御旅所-四条通(東)-石段下(南)-神幸道(東)-八坂神社(午前12時頃)に戻った。
子供神輿列
神饌行列
児武者-高士-馬長稚児
花傘 清々講社 八坂神社婦人会
久世六斎保存会
京都織物卸商業組合花傘 花傘娘
京都きものの女王は、上古・奈良・平安時代の装束を身にまとい、織商鉾に搭乗。
織商組合員加盟商社社員の方々、ミスきもの・準ミスきものの方々およそ30名が参列。
祇園東お茶屋組合花傘-小町踊
先斗町お茶屋組合花傘-歌舞伎踊
綺麗どころが人気
祇園万灯会-花傘
祇園祭山鉾連合菊水鉾町-祇園囃子
巡行列順
先祓-子供神輿列-祇園祭花傘巡行旗-神饌行列-神饌花車-祇園太鼓旗-祇園太鼓-八坂神社青年会旗-花傘-金獅子- 銀獅子
-幌武者-児武者-高士-馬長旗-八坂神社清々講社馬長-八坂神社婦人会馬長-祇園万灯会馬長-花傘- 八坂神社清々講社旗-供奉員-
八坂神社婦人会旗-供奉員-花傘-久世六斎保存会旗-六斎-供奉員-京都織物卸商業組合花傘- 花傘娘旗-花傘娘-織商鉾-供奉員-
先斗町お茶屋組合花傘-歌舞伎踊-祇園東お茶屋組合花傘-小町踊-(宮川町お茶屋組合花傘-コンチキ音頭-祇園甲部お茶屋組合花傘-雀踊 )
祇園万灯会旗-花傘-鷺踊旗-鷺踊大傘-鷺踊-万灯踊旗-万灯踊-供奉員-祇園祭山鉾連合菊水鉾町-祇園囃子-押
花傘奉納舞踊
獅子舞(八坂神社青年会) 花傘巡行に際し、清めの意味を以って、金獅子・銀獅子を復活、巡行の先頭をゆく。その作曲並びに振付は茂山千之丞氏の手になる。
六斎(久世六斎保存会) 六斎とは六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・晦)に念仏した事から起こり能楽、歌舞伎等の影響を受け今日に至っている。楽器は笛、三種の太鼓、鉦を使用する。
歌舞伎踊(先斗町お茶屋営業組合) 出雲の阿国が慶長八年(1603)京都の鴨川河原で演じた踊りは、京都の町衆によって支持され従来の白拍手幸若、曲舞に狂言の伝統が深く入り込みここに近世的な演芸が確立されるに至った。出雲の阿国は出雲大社の巫女で社殿修理の為諸国を勧進したと云われている。
この姿は墨塗りの笠をかぶり紅の胸紐小露の附いた白の千早に緋の切り袴、腰には金銅の瑶珞を吊し頭には数珠と鉦をかけ手に撞木扇等を持っている。
小町踊(祇園東お茶屋組合)当二条城と小町踊とは最も由緒深いものがありまして江戸時代の初め寛永の頃徳川将軍が朝廷の何候の節当二条城が所司代のはからいで宿舎に当てられたのであります。
其時京の町々に小さい女の子等が集まって美しく粧をこらして乳母に守られながら京の町を踊り歩いたのが始まりであります。
この歌を唄って太鼓を持ってテンテンと打ち囃して歩いたと文献にあります。
鷺踊(祇園万灯会) 鷺踊は傘鉾に付属した踊で、傘鉾の周囲を踊りながら巡行していたもので、近世になって傘鉾の中断にともない踊も中断されるに至った。
寛政年間に八坂神社より津和野藩に伝習されていた鷺踊をもとにして復興され、子供達に振付けされたのがこの鷺踊です。
祇園万灯会により昭和27年にお迎提灯が復活され、29年よりお迎提灯にこの鷺踊が参加する事になった。
万灯をどり(祇園万灯会)祇園祭音頭に奉仕の人々が生長するに従い、その人々の為に八坂神社鈴木名誉宮司の作詞になる万灯をどりを昭和四十三年七月二十四日に花笠巡行より参加する事になった。
(文は、祇園祭花傘連合会配布説明書から)
花傘、山車は、八坂神社絵馬殿へと片付けられ、来年の巡行を待つ。